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社会思想の古典を論ず『人間不平等起源論』へのレポート 2010.7.11

経済学部2年 松浦和紗

 

ルソー著『人間不平等起源論』を読んで

 

1、はじめに

 本書は、自然が人間に与えた平等と、人間が制度の中で作り出した不平等について考察しながらも、「自然状態に置かれた人間はどうなるか」という問いに対しての答えを与えようとしている。本レポートでは、ルソーの考えた平等と不平等とはどのようなものであったかについて軽く触れ、自然状態に置かれた人間について、筆者なりの考えを述べたいと思う。

 

2、ルソーの考えた「平等」

 ルソーは人間が本質的に平等な存在であると説いている。人間が社会を設立する以前には、自分とそれ以外の「ヒト」を比較することがなかったからである。そもそも比較とは、何らかの基準があってこそ成立する。まず基準が何かあり、それ以上に到達している者を「上」、その他の者を「下」とすることで差が生まれる。自分とそれ以外のヒトを比較することすら考えつかなかった状態においては、どこにも不公平は生まれない。生まれる余地すらない。

 この状態を、ルソーは「自然状態」と呼んだ。他人と比較することをしなかった時代の人間、また幼年時代の人間を指して、自然状態に置かれた人間とみなしたのだった。

 

3、ルソーの考えた「不平等」

 では、不平等はどのようにして生まれたのだろうか。ルソーは、不平等とは人間が社会制度のなかで生みだしたものだとしている。ルソーはたとえば、次のように述べている。「恋愛と余暇の真の産物である歌と踊りが、群れ集う暇な男女にとっての娯楽となり、むしろ仕事のようなものとなった。誰もが他人を眺め、誰もが他人に眺められたいと思うようになる。こうして公の尊敬をうけることが重要になり始める。もっとも巧みに歌う者や巧みに踊る者が尊敬され、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、もっとも雄弁な者が、もっとも尊敬されるようになる。これが不平等が発生するための、そして同時に悪徳が生まれるための最初の一歩となったのである。」(本書、136頁)こうした公の尊敬が成立しない状態では、富や地位などは人間を不平等に陥れるための要素にはならない。ただし、身体的な能力差などは、原始的な生活をしていても、人間を不平等とする要素となりえるだろう。

 

4、自然状態に置かれた人間のその後

 ルソーは、自然状態に置かれた人間が、その後しだいに社会的な存在に変貌していく、と言っている。そのための要因が、所有の概念であり、法であり、貨幣である。「持つ」人間は「持たざる」人間を下に見ることを覚える。さらに彼らは、自分たちよりも下と認識した人間を隷属させ、ここに奴隷制度が生まれる。こうして一旦明確な身分の差が生まれてしまえば、それを覆すことは困難になる。もちろん、イギリスやフランスを代表とする市民革命によって、形式上の身分的平等を確立することはできるが、それさえも、実質的には新たな身分制度を作るための契機に過ぎない。

 では、一度自然状態から脱して社会的な存在になった人間には、二度と平等な社会は訪れないのであろうか。ルソーは、社会が高度化するにつれて生まれる専制政治によって、新たな自然状態が発生すると説いている。専制政治では、暴君以外の何者も「持つ」ことを許されない。まさに混乱と災厄が支配する時代である。この新たな自然状態は、不平等の行き着く場所であり、人間が発生した当初の純粋な自然状態に比べて、腐敗の極にある自然状態であるとルソーは述べている。

 

5、おわりに

 ルソーによれば、人々が個々人として生活を送っている間は、上下関係は存在しない。上下関係が生まれるに至った明確な契機は、人間が社会を生みだし、他者との比較を試みた頃であったとルソーは述べている。

 では、なぜ人間は社会を営んだのか。他の動物にも、群れを作り統治をする習性も持っているものは多いが、人間ほどの上下関係があるものは存在しない。確かにライオンなどは、群れのボスに従っている。だが、そこには余計な隷属はみられない。人間は、自然状態から脱した時に知恵をつけた。その知恵は、自らの財産を守るために働くのではなく、他人の財産を奪って自分たちの家族を繁栄させようとするところまで行きついてしまった。

 ルソーは、こういった人間の状況を憂いている。しかしながら、それを改善するための方策は何一つとして提示していないように見える。彼は「今の状態ではいけない。なんとかしなければ」と言いながら爆音の警鐘を鳴らし、民衆の不安を煽っているのみで、自ら動くことをしていないのである。もちろん、彼の多数の著作によって啓蒙家たちが刺激され、今日の社会を作る契機ともなったフランス革命が起こったのだから、思想家としての彼の業績を否定するつもりは筆者にはない。しかしながら、彼が本書の中であまりにも大言壮語しているために、ある種の物足りなさを感じてしまうのである。ここで敢えて強調しておきたいのが、筆者には彼の思想を否定したり軽んじたりする気持など、毛頭ないことである。ただ、ルソーの語る思想が素晴らしいものであればこそ、その先の道標が1つとしてないことに不満の意を表しているのである。